2.『木』 解説

明治開拓民の姿勢

 村と呼ばれてから、長万部の地には次々と入植が進む。しかし農業適地とは言えない気候に、彼らは苦労した。開拓使理事に「農業には向いていない」とまで指摘されるが、初代副戸長竹内弥兵衛は怒るほかなかった。事実、移民は増加するものの農業専念者は少なく、旅人宿や馬追兼業者が多かったのだ。

 それでも、人々は文化的な面には意欲的であった。明治14年の新聞に「貧乏村でありながら教育や衛生には進歩的」だとの紹介がある。竹内ら実力者が率先自助努力して学校や病院の設置に尽力したものだ。

 状況に変化が生じるのは明治15年ころ。汽船海路の充実により、陸を行く者が減少する。この結果、宿や馬追が暇になり、余った馬の有効利用のために馬市開催や牧場開設をするなど、さまざまな試みをせざるを得なくなる。皮肉にも、人々が農耕に精を出す様になったのもこの影響であった。

 この間の変化を川上十郎は沿革史で次のように記している。明治13年には、「貨物運搬の収入莫大にして一村繁栄の趣きたり」。ところが明治15年になると、「運搬の業減縮し、一村衰微を来せり」。

 長万部の人々は開拓使にすら見離された地で、改めて開拓の困難に黙々と立ち向かう。その自助努力の精神は、今も長万部町に脈々と受け継がれている。
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