静狩金山の歴史

年  月 出 来 事 時代

1980(明治23)年

8〜9月頃

 漁業家・磯野金作(小樽)が噴火湾沿岸の漁場巡視の途次に、探鉱して金鉱石を発見する。
 試掘権取得を地元有志に諮ったが、信用されず実現せず。
磯野金作
1892(明治25)年  磯野金作は、高岡文三郎(漁業)と共に探鉱、有望な鉱石を発見。再び有志を募ったが、誰も応ずる者がなかった。  
1900(明治33)年頃  ようやく試掘権を取得したが、磯野が高齢(73歳)のため、起業に至らなかった。  
1904(明治37)年頃

 磯野金作再び探鉱、案内人・和島藤太郎と共に百万坪の試掘出願をした。

(以上については諸説があり、特定出来ないが「浅田説(※注)」による)

 
1916(大正5)年  木山與一(石川県)、寿都町の中田米蔵・辻原某と共に来馬川を遡り探鉱した。 木山與一
1917(大正6)年  2月17日付けで試掘権取得。5月から採鉱を開始。  

1918(大正7)年11月

 採掘権への転願が認められ、採掘が本格的になる。
 良鉱は定山渓常陸鉱山(久原鉱業)へ。大正九年以後、静狩浜桟橋から出荷、秋田・小坂鉱山に売鉱する。
 
1920(大正9)年8月  小型の青化精錬所建設。1日10トンの鉱石処理能力。  
1923(大正11)年11月  株式会社川崎造船所が90万円で静狩鉱山を買収。
 従業員は男32名・女3名の合計35名であった。
川崎造船
1927(昭和2)年  従業員数、96名(うち鉱夫・84名、そのうち13名が女性)。  
1929(昭和4)年8月  金鉱の浮遊選鉱の研究が始まる。  
1930(昭和5)年11月  1日40トン処理の試験操業が開始されたが、工場設備に不備が多く、故障も相次いだため、浮遊選鉱は中止された。  
1932(昭和7)年12月  1日50トン処理能力の全泥式青化精錬所の操業を開始する。
 従業員数は200余名へ増加。
 
1933(昭和8)年8月  住友合資会社と合併。静狩金山株式会社(常務取締役・小池宝三郎、鉱業代理人・土屋裕)を創立する。
 資本金 川崎・100万円、住友合資・110万円の合計210万円であった。
静狩金山
1934(昭和9)年6月  従業員数、425名(うち鉱夫・390名、そのうち17名が女性)  
    同     7月  1日350トン処理の全泥湿式青化精錬所が竣工し、大規模な青化精錬が開始された。(従来の7倍に相当。)  
    同     9月  近接の礼文鉱山を買収。  
    同     11月  川崎・50万円、住友合資・55万円 計105万円を増資。資本金が315万円となる。この頃、新聞で「金湧く静狩」と称される。  
1935(昭和10)年6月  従業員数、521名に増員。  
1936(昭和11)年頃  従業員数、850名余(うち鉱夫・600名)  
1938(昭和13)年8月  1日1,000トン処理の精錬所が操業開始した。  
1939(昭和14)年6月  従業員数、1,465名(うち坑夫・1,370名、そのうち70名が女性)  

1940(昭和15)年〜

1941(昭和16)年頃

 従業員数が1,600名へ増員。  
1942(昭和17)年11月  日本産金振興株式会社に全株式を移譲、経営。 日本産金
1943(昭和18)年4月

 戦時下の政府は、当面不要となった金鉱業の労働力、機械設備等の全てを他の千字重要鉱業へ配当転換するという意向を見せるようになり、18年1月22日、「金鉱業ノ整備ニ関スル件」の閣議決定をしたことに従い18年4月1日、全国の金山の休廃止が実施された。当時、従業員数は約2,000名にものぼった。

 閉山式は体育館で2,000人の全従業員を前に、土屋裕所長が閉山に至る事情を説明、全員涙の中に転進を誓った。転進は、4月3日から開始され、最も多かったのは釜石への約800人、他に別子・国富・上ノ国等、全国の鉱山に散った。

 資材等は、小坂鉱山等へ転用された。独身寮は虻田町役場建物の一部に、精錬所鉄骨建材は虻田にあった海軍施設に転用され、現在でもレンガ工場として利用されている。

※閉山※
    同   4月30日  閉山後の整理精算は、日本産金が吸収されていた帝国鉱業開発株式会社によって行われた。 帝国鉱発
1944(昭和19)年10月

 昭和19年10月28日付けで、鉱業事務所の廃止届が提出された。

 

※注 浅田説=1987年6月・経済学研究(北海道大学)第37号 浅田政広氏(旭川大学地域研究所)静狩金山ー北海道産金史ーより
   その他の諸説で明治39年説、明治41年説、明治42年説などがある。