プロフィール

和田芳惠(わだ よしえ)

 

1906(明治39)年3月30日生(〜1977(昭和52)年10月5日没・享年71歳)

北海道山越郡長万部町字訓縫(現・国縫)出身

樋口一葉研究の第一人者。小説家。

短編小説集「塵の中」で、第50回(1963年下半期)直木賞受賞

 

訓縫尋常小学校で代用教員

 和田芳惠は、明治39年3月30日、父・伊太郎、母・リエの四男として長万部町字訓縫で出生。松太郎はリエの実兄である和田英太郎と和田商店を共同経営、当時、マンガン鉱石を産するピリカ鉱山の御用商人として繁盛していたが、意見の食い違いで袂を分かち分家し、「消費組合」を設立、経営に乗り出した。しかし、家計は苦しく、四男の芳惠は苦しい家計を助けるため小学校卒業まで新聞配達をしていた。大正8年3月、訓縫尋常小学校を卒業、4月に庁立函館商船学校航海科に入学。航海士を夢見て函館舟見町で寄宿舎生活をする。この秋、生家が破綻。大正9年、一家は札幌に転出。翌年3月に芳惠はスペイン風邪(インフルエンザ)に罹り、腹膜炎を併発、生死の境を彷徨う。函館商船学校を中途退学。札幌での療養後、大正10年4月に私立北海中学2年生に編入学した。

 この冬、父・伊太郎が脳溢血で倒れたため、家計は一層苦しくなり、姉たちとともに家計を支えるために、大正11年7月、長万部町立訓縫尋常小学校で代用教員(月給33円)を勤めることにした。下宿先はピリカ鉱山の御用商人だった叔父の和田英太郎宅で、家族の生計費と自分の学費を稼ぐ日々が続いたが、学校の計らいで余市出身の海運業社長の佐藤正男育英資金を受けることができ、学費と生活費のめどがついたため、大正12年2月、訓縫尋常小学校の教壇を降りた。復学後、北海中学で猛勉強し、東京での大学進学を目指した。

 

東京での大学生活

 大正12年、4学年終了後、北海中学退学。育英資金創設者で海運業社長の佐藤正男宅(東京・赤坂)に住み込み、家庭教師のアルバイトをしながら、大学進学予備校に通う。大正14年4月、中央大学法学部独法予科に合格。引き続き佐藤家で住み込みの家庭教師を続けながら、勉学を続ける。昭和4年予科修了、法学部へ進級。上級生が編集発行する「中央新報」という新聞の文芸面で活躍。この経験から将来は新聞記者になろうと夢を抱く。

 

新潮社に入社、松本清張を発掘

 昭和6年1月、朝日新聞学芸部長の石川六郎に面会するが、「君は体が弱いから新聞記者には無理。」と云われ落胆する。しかし、昭和6年4月、芳惠は新聞記者の夢を棄てきれず、評論「ノイエ・ザッハ・リッヒカイト(新即物主義)」を石川六郎に届ける。それが石川の目にとまり、彼の推薦で新潮社に入社することになる。早速、「日本文学大事典」編集部に配属され、文壇の作家たちを知る機会を得る。このころ「三田文学」に投稿した松本清張の資質をいち早く見抜き、親切に相談にのる。地方新聞記者だった松本清張が作家の道を歩む第一歩は和田芳惠との出会いであった。このことは後に松本清張からの「弔辞」の中に現れている。昭和16年、和田芳惠は処女作「格闘」を発表。

 

新潮社を退社、執筆活動に専念

 昭和16年8月、新潮社を依願退社し、「樋口一葉」(十字屋書店)を発刊。以後、本格的に執筆活動に入る。昭和17年「作家達」、「格闘」、「水葬」、「祝煙」、「十和田湖」を発表。昭和18年「樋口一葉の研究」、「離愁記」を発刊。昭和22年「日本小説」を創刊。

 

受賞作品

1956(昭和31)年 「一葉の日記」 第13回日本芸術院賞受賞

1969(昭和44)年 「塵の中」 直木賞受賞

1975(昭和50)年 「接ぎ木の台」 読売文学賞受賞

1977(昭和52)年 「暗い流れ」 日本文学大賞受賞

1978(昭和53)年 「雪女」 川端康成文学賞受賞

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