おしゃまんべの歩み
■静狩金山
戦中から終戦直後の長万部を支えたのは静狩の金山でした。
大正期に探鉱されたこの金鉱は、はじめ個人所有でしたが、長輪線の長万部−静狩間が開通した大正12年に川崎造船所に買収され、しだいに興隆していきます。昭和に入ると国策に伴い急激な拡張を続け、凶作、不景気の波をかぶる他地区を尻目に、大規模な町を形成、長万部村の大きな財源ともなりました。
昭和09年には精錬所を設置、軍需輸入資金確保の政策にも追い風を受け、やがて職員・労務者あわせ900戸以上、目を見張るほどの市街地を形成します。会社は静狩小学校の増築や消防団に幾度となく寄付を行いました。
その姿は、まさにみるみるうちに成長した大都会で、例えば昭和06年に金山の寄付で1教室増築した静狩小学校は、さらに寄付により増築を続け、6学級の昭和08年を経て昭和14年には学級数21にまでふくれあがり二部制をとったといいます。街も同様、異常な勢いでふくれあがっていったのです。
長万部村は、金山の急激な拡大で昭和17年には人口15,000人を越えました。
しかし、その栄華は続きませんでした。太平洋戦争突入によって金よりも実用金属の必需度が高まると、ついに昭和18年、金鉱業整備令により休山を余儀なくされます。職員・鉱夫たちは全国の鉱山に大移動。町の人口は一挙に3分の2に減少してしまいます。同年02月に町制施行したばかりの長万部町に とっても、それは大きな痛手でした。
あくまで休山ではありましたが、終戦後も二度と復活することのなかった静狩金山。
まさしく夢のようにはかない街でした。かつての金山は、今、採石場になって、その 名前だけを今に留めています。