おしゃまんべの歩み
■長万部町と道(その1)
長万部町の歴史には、道路交通の歴史が深くかかわっています。古く長万部の地は、まだ北海道が「蝦夷地」と呼ばれていたころからすでに交通の要衝でした。東蝦夷地(北海道太平洋岸)の出発点として、そして、西蝦夷地(日本海岸)と東を結ぶ分岐点として、うまれたささやかなミチは、人の移動の増加に伴って、路になり、やがては道路として鉄路として北海道を支えてゆきます。とりわけ、国道を中心とした幹線道路の変貌は、町に大きな影響を与えてきました。これは、道内でも最も長万部に特徴的な側面で、それは数字上にもはっきり示すことができます。
昭和63年現在、道内で国道延長50km以上の市町村は25。この中で、土地面積当たりの延長を比較すると、長万部町は小樽に次いで2番目となります。
今日、特に地域間交通の主役となった国道には、自動車のための道路というイメージが強いですが、もちろん自動車交通に快適・安全な道路として、初めからあったわけではありません。改めて長万部周辺の道路交通事情を降り返ってみましょう。

【北海道縦貫自動車道長万部IC】
寛文09(1669)年、シブチャリ(静内)を拠点とする東蝦夷の総大将として、シャクシャインは松前藩に反旗を翻しました。松前に向かって攻めるこのアイヌ軍を松前軍が打ち破るのは、今の国縫の地でした。このころまでの長万部周辺には自然発生的なミチしかなかったと考えられますが、海を伝い、海岸線を進んで、ここでぶつかったものでしょう。古く海岸線は、人々が最も自然に使えるミチだったのです。
しかしこの事件以後も松前藩は、拓殖政策を持たなかったため、ほとんど交通路の確保に積極性を示しませんでした。結局、松前領時代、北海道の地域間交通は、もっぱら海岸を徒歩で歩くか、難所を小舟で渡るのが主で、内陸には獣道程度しかなく、馬の移入も和人居住地を除き禁じられ、きわめて不便でありました。
こうした情勢に変化が生じるのが、18世紀末の寛政年間です。
千島にロシア人が出没、その脅威を防衛するため、幕府はまず東蝦夷地を幕領とし、1800年を前後して、盛んに道路を開削します。それは、主に従来の獣道を改修し、馬が通れる程度に草木を打ち払うレベルでしたが、意識的に道路が考えられたという意味で画期的な変化でした。
黒松内山道が蝦夷地中央部の東西連結通路として重要な意味を持って開削されると、長万部では民間の木賃宿も認められるようになり、馬の民間保有も許可されます。交通の要所では馬を置いて荷役に使うようになりましたが、この時期の道は、まだ馬が通るほどの幅しか持ちませんでした。付近にも山道や海岸線に路らしい路が生まれ、オシャマンベ場所は独立、会所が設けられ中継基地としても使われるようになりました。
ロシアの脅威が薄れ、一時松前藩領に戻ると、とたんに道路は荒れる一方となります。しかし、やがて外国の圧力から箱館開港が決まると、幕府は再び直轄経営を始め、各藩に分担警備を求めました。安政3(1856)年、黒松内山道開通の年、内浦湾警備担当となった南部藩は街道の要衝である長万部に分屯所を設けました。
【右:安政2年(1855)東蝦夷地相岸図台帳(長沢盛至)】

【今ものこる万延元年(1860)再建当時の飯生神社棟札】
開通した黒松内山道には橋がかかり、それ以前に利用された沢伝いの山道に比べると、ずいぶん便利になりました。この頃は、自費で開削した者が許可を得て橋銭を徴収していましたが、鰊漁場として人々を集める寿都へ向け、多くの人々が歩いていました。
当時長万部を巡検に訪れた松浦武四郎の記録にも「山越内は大変な人で、人別改め日によっては一万人。長万部までの海浜は一条の蟻道のごとく黒くなって絶え間なく人が行き」と書かれたほどです。
長万部の住人も増えており、不漁の年には、漁業従事者の多くも旅人宿や馬追い業をかねたほどでした。
こうして明治を迎えたころ、すでに長万部には、内地人口 59戸・258人、アイヌ人口45戸・151人が定住していました。
明治政府の下、ようやく道路は輸送路として開削されます。明治06年に初めての馬車道路である札幌本道が開通して後、次第にこうした拡幅のある幹線網が発達します。さらに車輪交通の発達に伴い、市街地の道路を中心に砂利が敷かれるなど技術的な成長も見せはじめました。塵埃も少なく、馬の足かかりも良く、次第に堅牢な道路となっていく砂利敷きが、馬車交通が増加するにつれ好まれたのです。しかし明治中期以降の運輸政策の関心は、大量輸送が可能な鉄道と海運に傾いていきました。
ですが大正期になると、自動車の増加により、道路への関心が再び高まりました。既設幹線道路も砂利道となり、道南などでは乗合自動車の営業も始まります。ただし、冬場には相変わらず馬橇が代用されていました。